「本当は別になりたい仕事があって、内定を得ている大学4年の2月頃、あくせく動いた」と前に書いた。自分の将来が見えなくなった時、自分がなりたかった仕事があったことを思い出した。
内定は大学4年の8月中旬にはもらっていた。内定といっても、本社前にある古いビルの一室に軟禁され、承諾を強要されただけ。今ならかなり問題になるやり方だ。ただ、同期のほとんどはそんな感じで内定となっていた。
そのようにして入ろうとしていた会社だから、4月が近づくにつれ、「リクルートでいいのかホントに?」と自問自答していた。
卒業もほぼ決まり、大学のサークル最後のスキー合宿に向かう数日前、新聞にある記事を見た。
ミッキー吉野がミュージシャン養成学校を作る
とあった。
ゴダイゴがピークを少し過ぎた頃だったが、ミッキー吉野といえば横浜出身の伝説のミュージシャン。そんな人が養成学校を作る。心がときめいた。
当時漠然とギターを弾いたりしていたけれど、ミュージシャンとしての才能が自分にあるわけはない。それは自覚していた。魅力に思えたのは、
プロデューサー養成コースもある
ということだった。
小室哲哉も、つんくも、まだ世にいない時代。自分にとってプロデューサーといえば、ビートルズを育てたジョージ・マーティンであり、当時全盛のクインシー・ジョーンズだった。
プロデューサーという職業が具体的に何をやるのかもよくわかっていなかったけれど、音楽関係に携わりたいという夢をふと思い出した。
それから数日して、その学校の説明会に出かけた。たしか代々木と千駄ヶ谷の中間あたりのビルだった。入学を決めたら、内定を断ろうと本気で思っていた。
ひと通りの説明があった後、各コースに分かれて面接が行われた。ギタリストやベーシストを目指す人は、その道のプロが面接する。プロデューサー養成コースの面接者は、校長就任予定のミッキー吉野さんだった。
スタジオみたいな暗い一室で、ミッキー吉野さんと1対1の面接。緊張した。
自分が音楽好きなこと。でも演奏者としての才能はないこと。だからプロデューサーとして音楽に関わりたいということ。一生懸命説明した。ミッキーさんは、うんうんと聞いてくれていたけれど、履歴書を見て一言。
富澤君は内定もらってるよね?
「ええ、リクルートという会社ですけど…」みたいに答えた。
続いてミッキー吉野さんに言われたことが、結果的に自分の人生を大きく変えた。
富澤君ね、君が内定もらった会社が、たとえばそうだな、TVK(テレビ神奈川)みたいな会社だったら、「俺と一緒にやろうよ」って言うよ。でもリクルートだったら、入って損はないよ。
そう言われた。
(え? 俺TVK好きなんだけどな…)
当時音楽番組として、日本の最先端を行っていたTVKは本当に好きだった。ほぼ毎日欠かさず見ていた。でも反論は飲み込んだ。
ミッキーさんは、さらにこう続けた。
リクルートだったら、いろいろやらせてくれるはずだよ。
プロデューサーには予算の組み方とか、会社と同じような能力が必要なんだ。だから、リクルートで何年かやって、会社の仕組みとかいろいろ覚えて、それでもまたうちに来たかったらおいでよ。
門前払いのような格好で、面接は終わった。「なんだよ~」と思ったけれど、「そういうものなのか」とも思った。「リクルートってそんな会社なのか」と、今さらのように思った。
その後、かなりたってから考えてみれば、おそらくその音楽学校設立の話に、リクルートの営業マンも絡んでいたのだろう。そんなことからミッキー吉野さんはリクルートという会社のイメージを持っていたのかもしれない。
いずれにせよ、あの時ミッキーさんが、「よし一緒にやろうよ」と言っていたら、自分は今ごろ連日ロサンゼルスのスタジオにいるか、フロリダの別荘にいるはずです(笑)。
結果的に3月の内定者研修に参加し、晴れて4月に入社。リクルート事件の起こる1年前のことだった。
それからはあくせくと働いているうちに、夢なんて、どこかに置き去りになっていた。
(続く)