独立した理由1

   

自分がまともに仕事ができるようになったのは、30歳前後からだと思う。その頃は、仕事も次々と舞い込んでくるから楽しかった。

もちろん長時間働くことはあったけれど、自分は仕事はかなり速い方だった。前に書いた

スピードこそ最高の品質

を実践しようと考えていたから、スピードとクオリティの最高のバランスを常に追いかけていた。

だから深夜残業、休日出勤が当たり前の職場で、珍しい短時間労働者だった。いわゆる「五時即」(夕方5時に即退社すること)もしばしばあったし、5時前退社もよくやっていた。なにしろ、会社が裁量労働制を導入した際、月間の通常勤務時間数に足りず、上司に「これじゃ査定でマイナスになる」と言われたことがあった。「裁量労働制なのにおかしい」と訴え、特例として認めてもらったけれど、新制度導入過渡期の変な話だった。

ただ、楽しい時間は永遠に続かない。追いかける営業数字は、あるQ(クォーター=3か月)が2000万円なら、次のQは2200万円、さらに次は2500万円と上がっていく。決して下がることはない。
短時間労働も泡沫の夢と消え、また仕事に追われる日々となる。数字も必ずしも達成できるとは限らず、浮き沈みが激しかったのが30代中盤に差しかかった頃のこと。

営業数字を達成するためには、それだけの仕事の本数をこなさなければならない。今でも覚えているのは2000年の夏頃、22本の案件を抱え、1つの案件で複数の実査をすることも重なり、27本の企画を同時に動かしていたことがあった。当時普及しはじめたExcelで、1枚10案件のチャートを作り、それが3枚目に達したから、はっきりと覚えている。

その頃の感覚は、バタバタとめまぐるしく、倒れる寸前だった……のかというと、全くそうではなかった。
むしろ逆だった。台風の中心にいるような感覚だった。
高速で走っていても、何がどこでどう起こっているのか瞬時にわかる感覚。案件を手伝ってくれるメンバーが、皆優秀だったからこそできたことだった。

西鉄ライオンズの鉄腕稲尾和久投手が、自らの全盛期を、「マウンドに立つ自分を見つめるもう1人の自分がいる感覚」と語っていたそうだが、それに近い感覚だった。宮本武蔵の言葉では「観見二眼」だろう。

達人の域に達したといえば聞こえはいいけれど、自分の中にいるもう1人の自分は、こんなことを考えていた。

こんなこと、いつまでやるんだろう?

徹夜を辞さないこともしばしばだったけれど、20代なら、翌日も普通に働くことができた。でも30代中盤からは、徹夜の次の日はガクッときた。体力の回復にまた数日かかったり。

入社したての頃は、「いつ辞めるか」ということばかり考えていた。実際に周囲の人間もどんどん辞めていった。
ただ、ロクな成果もあげられずに辞めることだけはイヤだった。自分が選んだ道から逃げるようなことはしたくない。
意地みたいなものだけでやっていたら、いつしか結果が出るようになり、仕事が楽しくなった。仕事が楽しくなってくると、辞めようと思っていたことなんて忘れていた。でも、それを思い出した。

「いつまでやるんだろう?」と考えた背景には、同時に多数の案件を抱えるようなことを、どのくらいまでやらなければいけないのかと考えたこともある。20数件はできた。ならば30件はできるのか? 30件がこなせたら、40件に挑戦するのか?
「それはさすがに無理だろう」という気持ちと同時に、「自分は何のためにサラリーマンになったんだっけ?」ということを思い出した。

(続く)

 

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